大晦日にカップルがいちゃいちゃしてるようなそうでもないような話



 今年最後の日、ただいまと言ったらただいまと返ってきた。後ろ手に玄関のドアを閉めてから、僕は少々困惑せざるを得なかった。外から帰ってきたのは僕で家で出迎えたのは彼女なのだから、そこはおかえりと言うべきだろう。別にそれは、ただいまと言いたければ言ったっていいし、それでなにか目立った不都合があるかと言われればそれはないわけだが、しかし御先祖様が採用した既存の価値基盤を否定する意味がどこにあるというのだろう。挨拶は人間関係の基本であり、それを否定するということはすなわち世界への反逆だ。世界への反逆。かっこいいな。絶対したくないけど。したって即洗脳されるかよくてニジョウのオモチャだし。
 僕がそんなことをぐるぐると考えながら突っ立っていると、彼女はあんたどうかしたの? と首を傾げた。はじまりがどこだったかすっかり忘れてしまったので、僕はなんでもないよと彼女に鞄を預ける。もうご飯できてるからねー、と彼女は尻尾を振り振り部屋の奥に消えていった。
 いい尻である。
 ここでぶっちゃけたことを言ってしまえば、彼女の外見は僕の好みから外れている。けっこう外れている。尻は好きだが。まず僕は犬人が好きじゃないし、僕のと似たような茶色いんだか黄色いんだかはっきりしない毛色も好きじゃない。狐人のスタンダードを倣って尻尾ふっかふかでまさに黄色! みたいな狐人が好きですよ僕は。これほんと。彼女の尻が好きなのもほんと。
 口にしたが最後ぶち殺されるか彼女が死ぬか二つに一つ、そんな戦略地雷を頭の奥底にしまいこみつつ、僕は革靴を脱いで、スーツも脱いだ。この勢いで全部脱ぎたいけどそんなことしたら空気が変になるからね。あっこいつニジョウに頭いじられちゃったどうしようとか溜まってるのかなどうしようとか。どっちも困るんですよね。ああ、そもそも全部脱ぎたいの嘘。ぱんつだいじ。衣服の枷からは解放されたいけど文明から脱落はしたくない。籠の中のジレンマというやつである。
 玄関の冷たい床に座って先史時代より変わらぬ我らが命運に僕が想いを馳せていると、鞄を片づけたらしい彼女がとことこ戻ってきた。
「あたま大丈夫?」
 あたま大丈夫、とはつまり、テメーのノーミソ腐ってんじゃねーの? とか、お前頭悪すぎっから入れ替えちまったらいいんじゃねーの? とか、もっと簡単に言ってしまうならあなたの頭はおかしいのではないですか? とストレートにアタックしてくる言葉であって、喧嘩を売っているに等しい文言である。しかして彼女はそんなことには露とも思い至らず、ただ単純に、僕の頭が正常に機能しているのかどうかを心配してくれているのだ。たぶん。
「大丈夫だよ」
「疲れてる?」
「そこそこね。ま、いつものことさ。もう大丈夫だよ」
「ん。おつかれさま」
 彼女は僕の手をひょいと引っ張って立たせてくれた。こういう心にじわっと効くさりげなさにかけて犬人にかなう種族はいない。そのまま仔供よろしく手を引かれてたったかたーとリビングに着いた。
「ご飯準備するね。先にお風呂入る?」
「どうせならほら、そこにもういっこ付け加えてよ」
「ばーか」
 哀れ、僕の手は捨てられてしまった。がるがる怒る彼女に追い立てられて僕は自分の部屋に叩きこまれる。しかしこの「ご飯、お風呂、それとも私?」の三セットって誰にでも通じるんだよな。いったい誰が言い出したんだこんなこと。いや興奮するけどねーこういうの。好きですよ。はい。お約束って鼻について好きじゃないんだけどこれほんと。でも彼女にやられると萎えるかな。これは嘘にしておこう。そもそもこういうものは予期せずにやられるからいいんであって、彼女が自分からやってくれることなんてまずないだろうからな。
 やれやれ、と思いながらベッドの上に畳まれていたパジャマに着替える。スーツは適当にほっぽり出しておけば彼女が片づけてくれるのだ。素晴らしい。お小言がついてくるとはいえ、素晴らしい。
 僕がリビングに戻ると彼女はテーブルに豆腐を並べていた。今日はどうやら和食らしい。僕個人としては和食が好きなのだが、彼女は和食に関しては当たり外れがある。別に外れても食べられないほどじゃないが、二人で顔を突き合わせてまずい飯を食べているとくらーい気持ちになってくるし。彼女も自分の失敗に落ち込んでぐちぐち言うし。一度落ち込むと立ち直るまでが長いから面倒なんだよねこの人。そういうときはもうほっといて勝手にやってくれと言うしかない。
 今日はどうなる事やら、と思いながら僕が椅子に座ると彼女もすとんと対面に座る。今日はだいぶご機嫌がよろしいようで、耳がぴこぴこおめめはきらきら。
「外の雪どうだった?」
「え? あーっと、そんなには降ってなかったかな」
「よかった。ね、お参りどこ行く?」
「ええー……行くの? 君? 血族なのに?」
 うっかりそう口に出してしまったところ、彼女は露骨にしょぼんとした。
 もう獣人しかいない人類の全てを支配している我々血族の中では「宗教ってもう古いよねー」というのが基本的なスタンスだ。そんなものに頼らなくても共通の倫理基盤は構築されているし。一般の、血族でない獣人たちは理由も知らず喜んでクリスマスやらハロウィンやら楽しそうに行っているけれど。
 というのが彼女をねじ伏せるための表向きの理由であって、本当の理由としては僕が面倒だからだ。寒いし。人いっぱいいるし。そんな朝も早くから出歩きたくないし。ていうか正月はずーっと家でごろごろしていたい。どうせ呼び出されたりするし。
 そもそも彼女はクガだ。クガは近くにいるクガ同士である程度意識を共有してしまうという面倒な血族であって、あまり血の濃くない彼女が人ごみに出ては多くのクガと意識を共有してしまい脳が処理しきれず目を回すことになりかねない。そんな面倒は御免だ。
「ねえ……行こうよ」
 しかしながら、彼女はイベント大好きな人であった。耳をぴんと立てて強気に見せかけたおねだりの構えである。
「行ったって君、しょうがないだろ」
「しょうがなくないよ。今年も頑張ろうねっていう気持ちだよ」
「そりゃ君にとってはそうだろうけど僕にとってはそうじゃないから君一人で行ってきなよ」
「一人で行ったってしょうがないでしょ!」
 しょうがないしょうがない。どうでもいいが流しの脇に摩り下ろした生姜が見えた。生姜あった。本当にどうでもいい。
「屋台がいっぱい出てて、ほら、フランクフルトとかあるよ」
「フランクフルト?」
「焼きそばとか、鯛焼きとか、人形焼きとか、たこ焼きとか」
「うーむ」
 それ自分で食べたいものを言ってるだけだよね君。僕その中のどれも別に好きじゃないからね?
 こうなった彼女は長い。しつこい。犬人はしつこいけどクガは特にしつこい。もしこのお願いを拒否した場合、落ち込んだ彼女を元に戻すのには大変時間がかかるのは間違いない。ここで折れるのは癪だがさりとて折れないと面倒だ。一瞬カンヅカの権能でお参りに行ったという幻覚を見せようかとも思ったが、正月早々幻覚漬けにするのは、さすがに、良心が。これほんと。
「……いいよ。仕方ないな」
「やった!」
 首を縦に振ると彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。僕が一緒に行くことの重要性についてはいまいちよくわからないがそこまで嬉しがってもらえるんなら悪い気はしない。
「じゃあちょっと待っててね、いま茹でるから」
「うん」
 茹でるということは無難に年越し蕎麦か。蕎麦ならどうやっても失敗することはないだろう。彼女そこまで料理下手じゃないし。やれやれ、と思いながら僕はテーブルの横に置かれていた新聞を手に取った。


 ……ここまでやっておいてなんだが、僕と彼女は恋人とか夫婦とかそういった関係ではない。一緒な部屋に住んでて家事やらせて男女な関係にもなってますけど、違うんです。誰に説明しても「それ言い繕う必要あるの?」なんて不躾な質問ばかり返ってくるが違うんです。これほんと。嘘じゃない。
 客観的に僕らの続柄を言うなら腹違いの兄妹だ。僕の父は僕と同じカンヅカで、困ったことに女好きで、それはもういろんな畑に種を蒔く人だった。彼女はそんな父が普通の犬人に手をつけて産ませた娘だ。あまり詳しくは聞いていないが、母一人娘一人の生活を営んでいたところ、母親が一般人には苦しいかなくらいの借金をひっかぶって死んでしまい、ひとり遺された彼女を助けてやれなんてお話が歳も近い僕のところに来て。借金をきれいにする間行くところもないという彼女を僕の部屋に一週間ほど住ませておいて、すべても終わってお互い追い出しかねていたというか出て行きかねていたというかそんなところで、僕が彼女に、つい、手をつけてしまった。
 ここで弁解しておきたいのは僕が父のような女好きではないしこの件における僕の責任はあんまりないということだ。そもそも血族というのは血が近ければ近いほどその相手と交尾したくなるという因業な性癖がある。彼女は血がそこそこ薄いが僕は純血により近い証である赫瞳が発現するほどれっきとした血族であって、自分では結構そういうことに耐性があると思っていたのだが、血が半分も繋がっている相手を前にしてその衝動には抗えなかったのだ。僕のせいではない理由ひとつめ。
 ふたつめとして、そのときの彼女の格好がある。あの日はちょっと暑い日で、急にぽっかりと予定がなくなった僕は家に帰って、そうしたらお風呂上がりでふかふかほかほかの彼女が下着の上に僕のYシャツを羽織っただけという、まあ、そういう格好で。お洗濯忘れてましたとかそんなことを言い訳してて。男性諸氏ならわかってくれることと思うし、これがわからない奴はまだ大人の愉しみを解さない仔供かもしくは人の口と肛門を縫い合わせて連結しないと興奮できないような弩級の変態でしかないと言わざるを得ないがとにかく、裸シャツを見て我慢しろというのは大変に酷な話だ。もちろん彼女はブラもパンツも着用していたし厳密には違うかもしれないが、この場合そんなことはどうだっていい。問題なのは彼女が裸身の上に僕のYシャツを羽織っていたということである。裸シャツ、別名彼シャツとも呼ばれたりするらしいが、これはチラリズムと独占欲の充足を同時に満たすことのできる素晴らしい服装である。シャツの生地は透けそうで透けないながらもそこに包み隠された輪郭を仄めかしてこちらの欲望を煽り立て、そのために調整されているとしか思えない裾が下半身と上半身の境目となって掴み心地のよさそうな尻や悩ましい太ももやもふもふした尻尾やらを強調する。ちなみに僕は尻フェチであり足フェチである。
 とにかくそんな彼女に僕はむらっとして襲いかかり、事を済ませてこんな人だとは思わなかったとか助けてくれたと思ったのにとか泣きじゃくっている彼女にむらむらっときて再び襲いかかった。今思い返せばあの二回目がいけなかった。彼女は単純だがその頭の中に何が詰まっているのかはいまいちよくわからん女である。あの二回目で彼女の中の僕が卑劣な強姦魔から別のなにかにスイッチしたのは間違いない。どっちがよかったのかと聞かれればそりゃ今の方がいいような気もするが、事の最中にカンヅカの悪癖でなんか碌でもないことを囁いたような気がしないでもないのである。さっぱり覚えていないし確認する勇気もないので放置している。見えている地雷を踏むほど暇じゃない。これほんと。
 ここまで全て言い訳がましいのは弁解だからである。外堀を埋められたというか自分で埋めて自分で招き入れて自分で嵌ったみたいな感があるが、そういうことなんである。


「できたよー」
 食卓に並んだのは果たしてうどんだった。そばではなくてうどんだった。うどんよりそばが好きだ。別にどんよりしたりはしないけど僕はうどんよりそばが好きだ。そして彼女はそばよりうどんが好きだ。
「年越し蕎麦じゃないの?」
「太く長くを願ってうどんを食べることもあるんだって」
 この女理論武装してやがる。別に拘るほど蕎麦が好きなわけでもないので、僕はいただきますと箸を取った。うどんの茹で具合はちょっぴり硬めでこれは僕の好みに合わせてくれたものらしい。そんなに気遣いしてて疲れないのかね、とか思いながら僕と彼女はしばらく黙ってうどんをつるつる啜る。豆腐にはいつの間にか生姜が添えられている。いい大晦日だ。

 食後にソファでまったりしていると、片づけを終えた彼女がそそっと隣に寄ってきた。
「どうかした?」
「なんでもないよ」
 なんでもないなんでもないと彼女は呪文のように繰り返しつつ僕の肩に鼻を押し付けてくんくん臭いを嗅いでいる。その眼差しはどうにもとろんとしていて、恥ずかしいから勘弁してくれとも言い難い。
「ねー」
「ん?」
「なんでもない」
「……あのなあ」
「うん」
「……いや、いい」
「んふふ」
 これほど意味のない会話があるだろうか。いや、ない。別にあってもいいけど。世の中広いしきっとあるだろうけど。しばらく意味のない会話を続けながら、僕はぼけっと窓の外を見ていた。雪がしんしんと降っている。出歩きたくないなあ。そういえば彼女って雪の中歩くの好きだったな。なにが楽しいのやら。
「ねえ」
「うん」
「来年とか……その次も、よろしくね」
「え?」
 突然彼女が意味のある言葉を発したものだから僕は理解するのにしばらく時間を要した。
「だ、だめ?」
「だめっていうか、えっとねー」
 ここで駄目と言ったらやばいだろうなー絶対やばいだろうなーとかやばいことを考えながら彼女の頭を撫でる。来年もその次も、ねえ。そりゃ別に嫌ってわけでもないけど。
「よし」
「う、うん」
「お風呂に入ろう」
「わふん?」
「入ろう」
「あ、あの、答えは」
「姫初めの対義語ってなんだと思う?」
「ひめはじめ?」
「殿終わりかなやっぱり。でも姫初めの語源も字義も正確には不明だから難しいところだよね」
「なんの話?」
「大事な話だよ。さあお風呂に入ろう」
「?」
「いいからいいから」
「何言ってるの?」
「いいからいいから」
「……う、うん」
「いいからいいから」
 そんなこんなで僕は彼女とお風呂に入ったのち殿終わりを無事に済ませたことにより、おもたーい質問を曖昧に濁すことができたのであった。いや別に嫌いじゃないけどね彼女のこと。でもはっきりしちゃったらつまんないかなーと思って。これほんと。別にはっきりしてもいいけど。これもほんと、ということにしておこう。




アトガキ:
新年の前に一本書いておこうということで急遽書きあげた代物。ライトノベル風。 夫から妻へ行われるモラルハラスメントの話を聞いてたぶんこんな感じの男じゃないかな、と書いたのが主人公。 借金背負わされて身寄りを亡くしたところにつけこんで手籠めにして甘言囁いて 家政婦兼セックスフレンドにしちゃっただけなのでモラルハラスメントはしてない。 それどころではない。内縁の妻、というのが周囲及び彼女の認識である。 不誠実な男だがなんだかんだ愛情があるのも確かなのであんまり問題はない。いずれ尻に敷かれる。
導入書いて設定書いて飽きてちょろっとくっつけて終わり、という最近の悪癖がモロに出ている。 ライトノベルのように自分の内面を逐一供述するのは苦手。 言葉のリズムを練る必要があるが私的にきれいな文にならないのでもうやらない。